文楽11月公演

国立文楽劇場 11時開演(15時終了)

  • 嫗山姥(こもちやまんば)
  • 大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)
    • 大経師内の段
    • 岡崎村梅龍内の段
    • 丹波隠れ家の段
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終演後、T氏が桐竹勘十郎さんの奥様にご挨拶するというのでノコノコついて行くと、奥様はご不在で、なんと勘十郎さんご自身が一階まで出迎えに来てくださり、丁寧に人形や舞台の説明をしてくださった。

人形遣いの三位一体の動きが、なぜかくも破綻なく実現しているかについて、長い間不思議に思いながらも漠然と「修行の賜物かー、すごいなー」くらいにお茶を濁していたのだけれど、今回の勘十郎さんのレクチャーで、その謎が解けた。主遣いがすべて指示の信号を出しているのだ。

人形たちの息遣いを感じさせるような文楽らしい動作は、もちろんリアルな舞台性を生み出す大きな要素であるのだが、その体の動き一つ一つが、実は左遣いに対する「次の動きへの指示」としても機能しているのだそうだ。例えば、左を向く場合、いきなりキョロリと鶏のように頭を動かすのではなくて、フワリといったん右に体を傾けてから、一呼吸あってようやくゆっくりと左へ顔を向けるというふうに、一連の動作が全て信号として働いている。

足遣いに至っては、主遣いの左腰にぴたりと体を添わせており、主遣いが腰の動きでコントロールしているのだった。

もちろん、勘十郎さんが強調されていたように、「人形の体の中心を覚える」といった、体に叩き込まれた感覚あってのものなのだろうけれど、「振り」という一連の基本単位が組み合わせれ時間化されて三人遣いの一体感が生まれていることに、改めて「文楽の洗練」を思った。

(楽屋の廊下両側に人形が置かれているところがあって、その前で勘十郎さんが人形を遣いながらお話してくださっていると、通りがかった左遣いの方、そして足遣いの方がさっと手を添えてくださって、結局三人遣いの妙味を堪能させていただくことができたのは、本当に幸運だった。)

驚いたことに、三人遣いの歴史は、実は近松の時代より後(享保19年『芦屋道満大内鑑』/竹本座)に始まったらしい。ということは、本日上演されたものも、初演当時の観客は一人遣いの人形で観ていたということになる。「だから、(茂兵衛が)屋根から下りてきたりするんですよ」と勘十郎さん。台本として三人遣い用には書かれていないので、いろいろと不都合があるらしい。

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